<「塚」ってな~に? 見に行ってみよう。>
東京文化財ウィーク〈塚つかウォーク2009〉
「塚」
で思い出すのは小学生の頃に習った「貝塚」。
それから「富士塚」「蟻塚」「庚申塚」。「首塚」というのもよく聞く名前。
それにしても、「塚」っていったいなんだろう?
2009年11月7日。秋晴れの空の下、
東京文化財ウィークに日野市内の塚めぐり〈塚つかウォーク2009〉が行われたので行って来た。
これで「塚」の不思議が解明される?
コースは多摩モノレール 万願寺駅を出発。
「万願寺一里塚」から、日野自動車(株)の敷地内にある「上人塚」、「日野台一里塚」、
コニカミノルタ(株)内「富士塚」を見て、富士電機(株)「まつり塚」で解散という約6時間の行程。
日野市教育委員会の学芸員3人と一緒に歩き始める。
最初は「日野万願寺一里塚」。
江戸幕府が日本橋を基点に街道を整備し、一里ごとに塚を築かせたのは17世紀のはじめのこと。400年も前に盛られた土が今もそこに残る「甲州街道万願寺一里塚」。
モノレールが真上を走るこの塚は、当時の甲州街道がどこを通っていたかを物語り、江戸から九里目。大名行列が通ったり、旅人が塚の樹木の陰に日差しを避けたりしたに違いない。日野市の調査によれば、この塚は直径9m、高さ3mと一里塚の基準通りなのだという。
途上いくつか文化財を廻る。最初は共同製粉所と大手橋。「大手は日野の万願寺」といわれる大手橋はここのこと。
日野宿交流館には日野宿の模型や日野煉瓦の実物、渡船の様子などが展示されてある。
道路を隔てて向かいには、歴史を語る「日野宿本陣」の門。
旧甲州街道をたどって坂下地蔵。
ここから日野の台地をのぼって日野自動車へ。
日野自動車敷地内の「上人塚」。
人が塚を作ると丸くなるのが常。この方形の塚は、その形自体に意味があるという。
江戸時代初期の文書に「請人塚」の記録があることから江戸時代には存在していたとされているこの塚は、戦国時代に美濃国より日野に移り住んだ佐藤隼人の業績をたたえたものと言われ、その業績を記した書類を作成し日野の台地に埋めて榎を植えたとされている。
しかしまた、一説にはタヌキが高僧に化けて旅人をだましたという伝説から「上人塚」というようになったという説もある。
いずれにしても調査の結果、塚の土質や周溝の状態から、この塚は新・旧・古の3期に渡って存在していたと考えられている。現在は盛土の上に草が生えないよう、シートで覆ってある。
途中、一里塚の碑を見てさらに進む。
企業の中にある塚はなかなか見学する機会がない。
コニカミノルタ内にある塚は、「富士塚」と呼ばれるもので、直径25m、高さ5m、土質は褐色粒子を混入した黒い土。古い時期の「上人塚」とそっくりなのだそう。調査の結果では富士信仰との関連ははっきりしないという。ランドマークだったことは確かなようだが、「塚」とはまったく不思議なものだ。
最後に訪れたのは、富士電機構内にある「まつり塚」。
旧平山村と豊田村の村境にあたり、道切りの注連縄(しめなわ)を張っていた場所。富士電機入り口からすぐのところに松が見える。周囲を石で囲まれて整備されてあるが、およそ「塚」という言葉からは想像できない、まるで庭の一部のようだ。村境のこの塚には、昔、松の根本に土台が築かれ、数基の石仏が安置、道きりの注連縄を張って外界からの悪霊の侵入を防いでいた。逆に村の中にいる疫病神などはここまで送って来て放していたと言われる。そのために「まつり塚」と呼ばれるようになった。
変わらない地形の上に過ごす者の生活は、日々クルクルと様子を変える。
今となっては「塚」が作られた理由もわからず、その役割も終わってしまったようだけれど、
昔を知ることからしか未来は見えてこない。
少なくとも、毎日お世話になる地元の歴史は、知っておいて損はない。
そんな風に感じた秋の一日だった。