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「詩歌のみち」②多摩モノレール柴崎体育館東

  • エリア 柴崎町 錦町
  • ジャンル 立川の歴史 お知らせ
詩歌の道、今回は多摩モノレール柴崎体育館駅東側をご紹介します。
ほとんどの歌碑が、根川緑道沿いにあるので、比較的探しやすい。
また、木立もあって日陰が多いので、この時期も散策に適しています。

そういいながら最初に紹介するのは、根川緑道か少し離れた立川公園内、
以前菖蒲園のあったあたりにあるのが若山旅人の歌碑。



『霧にこもれる多摩川いつか雨となり 芽ぶく楊もぬれはじめたり』

以下は説明文
「これは 若山牧水の長男 若山旅人(大正2年5月8日生)が多摩川を詠んだ歌です。旅人は 昭和22年9月立川市富士見町2丁目に移り住み その後 父母の遺志を継いで「創作」を主宰し 作家活動にいそしみました。
歌の大意は「いつしか雨となった。銀色の まだ早春の楊(いわゆるネコヤナギのことで一般のしだれ柳ではない)の芽も濡れはじめてきた。」という意味です。平成7年4月14日。」



南へ下って、根川緑道に戻ります。柴崎体育館の近くに水原秋櫻子の句碑があります。



『初日さす松はむさし野にのこる松』

以下は説明文
「水原秋桜子(明治25年10月9日~昭和56年7月17日没)俳誌「馬酔木」を主宰。
この句は、第八句集の「蘆刈」の中のお気に入りの一句で昭和12年の作です。
戦前に立川には、まだ赤松林や雑木林があり、武蔵野の風景がありました。こんな絵画美を詠んだ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に育てられました。平成13年9月8日。」



根川緑道を東に進みます。旧甲州街道の下をくぐって、出てきたところに広場があります。
霧の広場と呼ばれるこのあたりに若山牧水の歌碑があります。
この近くにはカワセミもやってきて、カメラを構える人も多数。



『多摩川の浅き流れに石なげて あそべば濡るるわが袂かな』

以下は説明文
「若山牧水(明治18年8月24日~昭和3年9月17日没)「創作」主宰。明治44年9月刊歌集「路上」にこの歌を発表。同時作に「多摩川の砂にタンポポ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし」があります。
牧水は旅の歌人、酒の歌人、恋の歌人として友人石川啄木の「一握の砂」と共に明治末期の歌壇の主流となっていました。平成13年9月8日。」



※若山牧水の歌碑はJR立川駅北口にもあります。

根川緑道をさらに東に、南側に曼殊沙華の丘があるあたりの反対側(北側)に池田澄子の歌碑があります。



『茜雲あえかに残り亡母の背の 温みなつかし武蔵野暮るる』

以下は説明文
「池田澄子(大正15年生~平成8年没)千代田区に育ち 戦後結婚して立川に移り住みました。
夫の突然の失明のため、会社の経理を担当し経営を助けるかたわら短歌を学び 平成2年に歌集「透きとほる窓」を出版しました。
この歌は 川崎の会社から夫を車に乗せて帰宅中 渋滞の日野橋を渡りほっと西空を見ると 今にも消えかかる夕焼けが美しく 幼かったころを思い出して 詠んだものです。平成9年10月18日。」



根川緑道をさらに東に、甲州街道をくぐって、野球場の北側にでます。この辺りは、桜の時期にたくさんの人でにぎわいます。さらに東へ貝殻坂橋近くにあるのが八木下禎二の歌碑。



『日のいろの寒き川原にひらめける 芒のそよぎ声のごときもの』

以下は説明文
「八木下禎治(明治37年6月12日~昭和62年6月5日)は 大正4年立川に移り住み その後立川連合短歌会を創立して 歌誌「たちかわ」を発行するなど 60余年短歌の道を歩みました。
この歌は 冬の多摩川の川原の情景を詠んだもので大意は「ススキが寒風でさらさらと音を立てている。まるで声を上げているようだ。」という意味です。平成7年4月14日。」



おそらく、今回のコースは迷うことなく歌碑や句碑を探せたと思います。

by JK